『走り続ける理由』

■ 走り始めの「病的な苦しさ」

風邪明けで久しぶりに走り出した。 最初の数キロは、まるで病気のような苦しさだった。 体は重く、息苦しく、「今日は本当にダメかもしれない」と思うほど。

若いころでも寝不足の日は同じような感覚があった。 走り始めのあの“病的な重さ”は、年齢とは関係なく訪れる。

それでも、そこを抜けると不思議と走れるようになる。 ランナーズハイとは違う。ただ、いつもの自分の走りに戻るだけだ。

■ 若いころの練習と記録

若いころは毎日10km走り、最後の2kmはスピード練習と決めていた。 水曜日はキロ4分を切って走る10km走。 週末はチームで10km、20km、30kmのいづれかの記録会。

練習では35分台が最高。 大会では36分10秒が自己ベスト。 年代別30代で6位以内で入賞することもあったが、それほど早いとは言えない。 これは謙遜ではなく、事実としてそういう位置だった。

夜勤明けに走った10kmで自己ベストが出たこともある。 疲労でリミッターが外れたのか、あの日は体が勝手に動いた。

■ 今の走りと、変わっていく身体

今はもう、若いころのように体が自然に弾む日は少なくなった。 調子のいい日は年々減っていく。

走り始めは苦しく、途中でやめようかと思うこともある。 でも粘っていると、ふっと普通に走れる瞬間が来る。 その瞬間を知っているから、街角まで、電信柱までと粘れる。

ただ、体調が悪い日の“覚醒”は代償も大きい。 走っている間は楽になっても、そのあとの疲れはどっと来る。 若いころとは違う。

■ 日々の積み重ねに、静かな満足がある

私は、日頃から走り続けていることに静かな満足を感じている。 特別なことではない。 ただ、長い時間をかけて積み重ねてきた結果が、今の自分を支えてくれているだけだ。

テレビ番組などで、 「普段は何もしていない人が、ぶっつけ本番で挑戦して感動を呼ぶ」 という企画をよく見る。

もちろん、そういう挑戦にも価値はある。 人が何かに向き合う姿は、どんな形であれ美しい。

ただ、私は思う。 日々の小さな積み重ねにも、同じくらいの価値がある。 派手ではないけれど、淡々と続けることには、 続けた人にしか分からない深い満足がある。

声高に言うつもりはないが、 私はその静かな積み重ねを大切にしたい。

■ 健康で動ける時間を大切にしたい

両親を見ていて、そして周りの人たちを見ていて思うことがある。 人は誰でも年を重ねるが、 自分の足で動ける時間がどれだけ残っているか で、 人生の質は大きく変わってしまう。

健康寿命が短くなると、 「やりたいことができない」 「外に出るのがつらい」 そんな声をよく聞く。

私は、そういう姿を身近で見てきたからこそ、 動けるうちに動きたい。走れるうちは走りたい。 そう思うようになった。

生きている価値がどうこうではなく、 ただ、 「自分の意思で動ける時間」 「自分の足で外に出られる時間」 それが人生を豊かにしてくれるのは間違いない。

だからこそ、今の体を維持したい。 走ることは、そのための大切な習慣になっている。

■ タイムを追う気持ちは、今もある

タイムを追うことを完全にやめたわけではない。 ただ、若いころのように自己ベストを狙うのではなく、 年相応の走りの中で、どれだけタイムを保てるか そこに興味が移ってきた。

年齢を重ねても、 「まだこれだけ走れる」 「まだこのタイムで走れる」 そう思えることが、今の自分の励みになっている。

■ 年を取っても、やることはある

年齢を重ねると、 「もうやることがない」 「楽しみが減った」 そう嘆く人が増えていく。

私は、そうはなりたくない。 走ることがある。 走ることで、体も心も前に進める。

だからこそ、走り続けたいと思う。

■ 走ることは、これからの人生の軸

もし会社を辞めても、走ることはやめない。 走ることは、記録のためではなく、 自分のために続けるものになった。

走れるうちは走る。 ただそれだけだが、それが今の私にとって大切なことだ。

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